住宅展示場
住宅展示場(じゅうたくてんじじょう)は、一戸建て住宅を建築する際の比較検討のために、実際に住宅を建てて展示してある場所。名称は住宅公園、ハウジングセンターなどとされていることもある。 地価の高い都市部よりも、郊外や、地方の主要都市周辺で纏まった土地が確保できる地域や、海沿いの埋立地、工場跡地などに立地する場合が多い。民放局の名を冠した(放送会社が運営する)住宅展示場が少なくないのは、嘗て放送法で設置が求められていた非常用第二送信所用地が、その後の法規制緩和で総て遊休地化した経緯による。
ある程度纏まった敷地の中に、複数の大手住宅メーカーがモデル住宅を設営し、来場客に比較検討させる企画意図で存在する。家族連れ客が殆どのため、子供向けイベントが開催されたり、体験宿泊を行わせたりもしている。 モデル住宅は通常フルオプション状態で展示されているので、自らの予算で建てられる物との違いを正確に把握する必要がある。建設費だけで1棟1億円以上が投じられたモデル住宅も珍しくない。モデル住宅は新製品に対応するため、5年間位で建替えが行われる事が多い。 カタログからは判りにくいスケール感や、動線、納まり等を確かめる為には、現物で確認することは無駄ではない。壁や床の構造をカットモデルで見せているものもあるが、品質の優劣を見極め、モデル住宅の通りに施工されるかどうかも厳しく監視すべきである。 それ以前に、モデル住宅の建設維持費も含めた膨大な広告宣伝費が、住宅の販売価格に上乗せされている事実も忘れてはならない。 住宅展示場の企画運営に携わる企業の業界団体「住宅展示場協議会」には、現在16社が加盟している。主にこれらの企業が全国各地で住宅展示場を主催しており、土地選定から住宅メーカーの募集、住宅展示場への集客までトータルに行なっている。中には地元の新聞社・放送局の主催を冠につけている会場もあるが、実際の管理・運営はこれら一部の企業に委託されている。 2009年2月現在、総合住宅展示場といわれる施設は全国に380箇所余り存在する。
渋谷
渋谷(しぶや)とは、渋谷区に属する渋谷駅、及び渋谷駅を中心とする街。 狭義では、住居表示における渋谷のことで、渋谷一丁目から四丁目まである。新宿、池袋と並ぶ三大副都心で日本を代表する繁華街の一つでもある。「西武百貨店」・「東急百貨店」・「パルコ」・「109」などのデパートや専門店・飲食店などが立ち並ぶ。渋谷駅前には忠犬ハチ公の銅像がある。若者の街として知られる。 また、同じ渋谷区にある、原宿、代官山と並ぶ流行の発信地でもある。 1973年に渋谷PARCOの開店を境に1975年以降は新宿に代わる流行の最先端となり、日本における若者文化の歴史が大きく変動してゆく、その結果として今や日本一の若者の街となった。
渋谷の歴史
吾妻鏡などの歴史書に、平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、この付近を本拠としていた武将渋谷氏の活動の記録が残されており、その一族に河内源氏の源義朝の近従だった渋谷金王丸がいる。 江戸時代には大山街道(現在の国道246号にほぼ一致)沿いの集落として栄えた。 明治時代になると1885年(明治18年)に山手線が開通し、1911年(明治44年)にはその都心方面寄りに東京市電が、1907年(明治40年)には西側に玉川電鉄(現:東急田園都市線)が接続したことから、交通の結節点として発展してゆくこととなった。以後も1927年(昭和2年)に東京横浜電鉄(現:東京急行電鉄東横線)、1933年(昭和8年)に帝都電鉄(現:京王電鉄井の頭線)、1938年(昭和13年)に東京高速鉄道(現:東京地下鉄銀座線)と次々に新線が開通し、ほんの少しずつではあるものの存在を広めてゆく事となる。 その中でも注目すべき事は、五島慶太の率いる東京横浜電鉄が小林一三率いる大阪の阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の梅田駅の手法に倣って、1934年(昭和9年)にターミナルとなる渋谷駅に東横百貨店(現:東急百貨店東横店東館)を設けたことで、関東では池上電気鉄道(現:東急池上線)の五反田駅の白木屋(1928年(昭和3年))、東武鉄道・浅草雷門駅(現:浅草駅)の松屋(1931年(昭和6年))に続いて3番目、全国でも4番目となるターミナルデパートであった。それまで鉄道で渋谷に来た後に銀座・上野方面へ市電やバスで向かっていた東急沿線在住の客が渋谷で買い物をするようになり成功を収めた。 1938年(昭和13 年)、前山久吉の所有していた三越株の譲渡の話が持ち上がった。そこで五島は東横百貨店を三越と合併させ、東横百貨店を三越の渋谷支店にしようと考え、 10万株を購入した。しかし、三井財閥の中枢企業である三越の乗っ取りを阻止するために三井銀行は東京横浜電鉄への融資を停止。三井の要請を受けた三菱銀行頭取の加藤武男も慶應閥の牙城だった三越の買収に手を貸せば非難が向くと判断し、融資を停止した。五島は三井・三菱を相手に戦いを挑まねばならなくなった。もちろん資金繰りは悪化。慶應閥に大いに顔が利く小林一三に助力を依頼したが、小林には「渋谷のような片田舎の百貨店がそんなことをするのは、蛙が蛇を飲み込むより至難」と諭された、と言われている。 戦後になると渋谷は1954年(昭和29年)に東急会館(旧:玉電ビル、現:東急百貨店東横店西館)、1957年(昭和32年)に東急文化会館、1965年(昭和40年)に渋谷東急ビル(現:渋谷東急プラザ)、1967年(昭和42年)には東急百貨店本店が設けられ、「東急の街」として発展していく事となった。 だが、郊外の一ターミナル駅に過ぎなかった渋谷が現在の地位を手中に収めることになるのは昭和50年以降であり、セゾン系列の西武百貨店が1968年(昭和43年)に渋谷へ進出した事を皮切りに、続く1973年のパルコ開店に因って今日の渋谷への布石となった。以後、東急と西武による開発競争が始まる。